生物の生き残り方

日本人の生き残り方はまるで、植物の生存競争のようだと思うのですよ。

植物の生存競争は大きく2パターン。

1つは多種の生物に気に入られるパターン。米は勝手に生えてくるのでなく、人間が育てているので今絶滅していない。人間に気に入られているから育ててもらえていて、反映しているのです。

もう1つは、絶滅させられそうになっても勝手に生えて、生き抜くパターン。雑草はその典型例です。毒を持って殺されないようにする、毒を持っている生物に擬態して自らも生き残る、いずれも多種の生物を敵としてみると、その敵をいかに欺き、いかにないがしろにするかにより、生き残っているのです。

 

これは簡単に言うと何かに、依存するか、依存しないかの違い。二つのパターンで生き残れない例として地球や太陽が消滅し、急になくなってしまうパターンがあります。地球の環境に依存するからです。

 

日本人の生存パターンは何かに依存して成立しているような気がします。それはスケールの違いで、例えば家族に依存、学校に依存、国に依存…これは否定をしているわけではなく、生き方として成立しているのでむしろ正しいと思います。

 

おそらく、その理由から道徳教育を大切にし、人として生きる権利を保証しているのです。

 

上の言う通りにしなさい→若い人言う通りにしたくない→雑草的に生き方→苦労する→年をとる→言うこと聞いておいたら良かったな→上の言う通りにしなさい

 

この思想は長年ループし、今現在にいたります。

 

これが成立するのは依存対象が圧倒的に強い場合だけです。依存対象の力が弱ければ被依存者は滅ぶことになります。

 

これまで、雑草パターンはループにより、黙殺されてきたように思います。

 

上の言う通りにしなさい→当てにならないなー→だったら自分で何かするか→苦労はするけど成功もする→苦労が苦労でなくなる→

 

このパターンが世にたくさん出てしまいました。その結果、圧倒的な力を持たない依存対象がたくさんでてしまいました。そうなると、着地地点が変わり、「別に言うこと聞かなくていい」となります。

 

この流れを2周もすれば世の中はガラッと変わる。故に今、好きなことをして生きるだとか、会社にとらわれない生き方だとか流行っているのだと思われます。

 

力があれば雑草すればよくて、依存者にやるなら対象を選択するところからスタートすればいいと思います。

 

そもそも、人間の場合どちらで生きるかの選択権がある分ましですけどね、今のところ。